死刑制度について考える
一連のオウム真理教がらみの事件に関与した死刑囚の死刑が執行されたとのことです。
そこで、死刑制度の存続・廃止について考察していこうと思います。
1 我が国の死刑制度
我が国では刑法によって刑罰の一つとして死刑が定められています。
第9条 死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。
また、死刑の執行は絞首(いわゆる首つりのこと)によって行われます。
第11条 ①死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。
アメリカでは電気椅子を用いてショック死させる方法がとられているそうです。
アムネスティ日本によると、日本における死刑執行人数は2017年は4人、2016年は3人となっており、平均でも毎年これぐらいの数字になるみたいです。
2008年は15人と例年と比べて多くなっている気がしますが、執行人数は法務大臣の裁量によるところが大きいと耳にしたことがあります。
https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/statistics.html
死刑の執行は当日の朝死刑囚に伝えられ、その日に執行されるそうです。
刑務官の足跡が「コツッ、コツッ」と聞こえるたびに恐怖に陥り、その日一日が終わると「今日も生き延びた」と胸をなでおろすのだとか。
死刑の執行を日々待ち続けるというのはいったどういう気持ちなのでしょうか。
私は考えたくもありませんが…。
2 死刑制度反対派の意見
死刑制度廃止派の意見としては、
①死刑は残虐かつ非人道的な刑罰であること
②死刑が犯罪抑止効果を持つという証拠はないということ
③誤判・冤罪の可能性は常に存在し、死刑執行後では救済することができず取り返し のつかないことになってしまうということ
などが挙げられます。
3 死刑制度賛成派の意見
死刑制度賛成派の意見としては、
①重大な犯罪を行った者は、自分の命をもって償うしかないということ
②被害者・遺族の処罰感情を重視するということ
③一定の犯罪抑止効果をもつということ
などが挙げられます。
4 まとめ(私見)
賛成派・反対派の意見をまとめてみました。
私は死刑制度反対派です。
人が人を裁くという以上、常に誤判・冤罪の危険がつきまとうという反対派の指摘はごもっともだと思います。
そして、この誤判・冤罪の危険というところを重視すべきであると思います。
事件の真相は、被害者・真犯人にしか知りえないことであり、どんなに証拠を積み重ねて裁判官を説得しても、黒が白になることはないのです。
さらに、捜査機関による不当な取り調べの結果、自白に転じたという被告人も少なくないでしょう。
それに、賛成派からは死刑が下される事件は、被告人が犯人であることが相当程度確実な事件ばかりだから冤罪の危険はないという意見も聞きますが、死刑確定後無罪判決が下された事件も存在する以上、この意見には賛成できません。(免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件など)
また、自分が被害者・遺族ではないからそんなことがいえるのだという意見もあると思いますが、もちろん自分が被害者・遺族の立場であれば死刑を執行してもらいたいと考えるのが普通でしょう。それを否定する気はありません。
しかし、被告人側の立場に立てば、なるべくなら死刑ではなく、違う形で罪を償わせたいと考えるのではないでしょうか。
なので、制度を考える上においては、主観的な意図はひとまず置いといて、客観的な視点から考えるべきだと思います。
死刑が犯罪の抑止効果を持つという点も疑問です。
「かっとなってやってしまった。」「相手のことが憎くて。」など犯罪を行うかどうかは一瞬のうちに決定されるものであり、行われる際に死刑のことを考える人は少ないと思います。
世界的にも死刑を廃止または執行を自粛している国は多くなってきています。
ヨーロッパ諸国では、そのほとんどが死刑を廃止しています。
世界的な傾向も死刑制度廃止の方向へ向かっているといえます。
死刑制度なんて、普段生活している中でほとんど関係ない事柄かもしれません。
しかし、家族が被害者・加害者になる可能性はいつ・どこにいても存在します。
ふとした時に考えてみるのもいいのではないでしょうか。